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趣味の歴史や読書などについて、つらつらと語るブログ。戦国真田氏ネタが多め。最近は手芸ネタも増え、カオス化しています。(汗)
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 昨日5月8日、群馬県太田市の生品神社で『鏑矢祭』というおまつりが行われました。

  ■msn産経ニュース
    伝統の鏑矢祭、地元児童が鎌倉へ矢を放つ/群馬県太田市


 このおまつりは、群馬県太田市(旧新田町)の新田義貞が、元弘3年(1333年)5月8日に打倒鎌倉幕府の兵を挙げる際、生品神社で鎌倉の方角に鏑矢を放って吉凶を占ったという伝承から、この日に行われています。
 矢を射るのは、地元生品小学校の6年生男子。袴姿に鉢巻がりりしいです。

 元弘3年2月、新田義貞は幕府の命令により楠木正成の千早城を攻めていましたが、仮病を使って帰郷しています。これは、後醍醐天皇または護良親王からの倒幕の綸旨・令旨を受けてのことであると言われていますが、実際のところはわかりません。
 また、挙兵のいきさつについても不明ですが、『太平記』にはこんなことが書かれています。

 新田荘に帰っていた義貞のもとに、出雲介親連と黒沼彦四郎入道が幕府から軍資金六万貫文の徴収の使者としてやって来ました。
 『上州新田一族』という本によれば、義貞よりも100年ほど前の執権・北条泰時が定めた米相場では、銭一貫文は米一石であり、六万貫文は六万石となるそうです。時代の変遷を考えても、三万石くらいではないかとのこと。

 六万石といえば、関ヶ原合戦後の真田信之の上田領の石高と同じくらい。三万石ならば、同時代の沼田領と同じくらいとなります。(つい真田を出してしまう・汗)
 新田荘世良田は裕福な者が多いとのことでこの高額となったらしいのですが、これを5日のうちに納入しろとの無理な命令に新田氏は怒り、2人の使者を捕らえて黒沼の首を刎ね世良田宿に晒しました。
 幕府の使者を斬ったとあっては、追討されるのは必至。我に返った義貞や家臣は、今後のことについて相談しましたが、防戦の案ばかりでなかなかまとまりません。
 その時、義貞の弟・脇屋義助が積極策を提言します。

  弓矢ノ道、死ヲ軽ンジテ、名ヲ重ンズルヲ以ッテ義トセリ。
       ~中略~
  運命ヲ天ニ任シテ、只一騎ナリトモ、国中ヘ打チ出テ、義兵ヲ挙ゲタランニ、
  勢附ケバ、ヤガテ鎌倉ヲ攻メ落トスベシ。
  勢附カズバ、只鎌倉ヲ枕ニシテ、討死スルヨリ外ノ事アルベキ。


 この演説に打たれた義貞や家臣たちは挙兵を決意、5月8日の卯の刻(午前7時)、生品神社での挙兵となりました。

 ここで面白いのは、消極的な総領・義貞に対し、弟の義助が打倒鎌倉幕府(または執権北条氏)という積極的な意見を出していること。
 後に義貞のライバルとなる足利尊氏と直義兄弟と似ているんですよね

 尊氏は、幕府を裏切ろうとした時、妻子(北条(赤橋)登子と千寿王)を人質として出すことと幕府への忠誠を示す起請文を提出することを強要され、思い悩んでいました。
 直義は、「千寿王は幼児なので万一の場合は家臣がいずれかへ隠すことができるし、奥方は執権(守時)の妹なので心配ない。正しい行い(倒幕)をするのだから、偽りの起請文を出しても神仏は咎めない」と励まし、挙兵を決意させています。

 新田も足利も、兄よりも弟の方が現実を見て冷静な判断をしているのです。
 『太平記』は戦記物語であり事実はどうだったかはわかりませんが(新田の評定に参加した人物が足利兄弟の密談の場にいるはずがないし)、義貞も尊氏も「総領の甚六」(長男は跡継ぎとして大事にされるので、 弟よりもおっとりとしていて世間知らずになるということ) 的に描かれているのが興味深いですね。

 本当は昨日投稿しようと思っていたのですが、時間切れでできませんでした。(汗)
 写真は、上が新田荘歴史資料館にある新田義貞像。稲村ヶ崎で竜神に黄金造りの太刀を捧げ潮を引かせたという有名なシーンですね。
 下は、近くの長楽寺境内にある新田一族の供養塔です。
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 真田幸村の命日ですね。慶長20年(元和元年・1615年)5月7日に、現在の大阪府大阪市の安居神社の付近で傷つき疲れた体を休めている時に敵に襲われ、討死したと伝わっています。
 幸村の死や当時の文献の記述などについては、こちらに書きましたので、今回は詳しくは書きません。

 慶長20年5月7日は、現在の暦に直すと6月3日。現在ならば、梅雨入り直前の頃でしょうか。天気が良ければかなり暑い季節ですので、朝から戦い通しだった幸村や将兵は、どんなに疲れていたことか・・・そんなことを思いながら過ごした1日でした。

 上田真田まつりのレポ、まだできていません。(汗)
 長い連休で時間はたっぷりあっても、事情があり昼間は作業できないうえ、人垣越しの写真が多く切り出しにやたら時間がかかっています。
 明後日には仕上がると思うのですが・・・
 今月9日、強風により神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮のシンボルとも言える大銀杏が倒れてしまったそうです。
 この銀杏の別名は、『隠れ銀杏』。1219年(承久元年)1月27日、右大臣就任の拝賀式から退出する鎌倉幕府三代将軍源実朝を討った公暁(実朝の兄・頼家の次男)が隠れていたと伝わっている銀杏です。

 最近は『樹齢1000年』と言われているようですが、昔は『樹齢800年』と書かれた本も多く、「樹齢800年ではこの事件の時には人が隠れられる大木ではないだろ」と思ったものです。
 現在樹齢1000年だとしても、樹齢200年ほどの当時には前に公暁とその仲間の法師数人が隠れることのできるような大木だったのでしょうか。

 また、鶴岡八幡宮は頼朝が鎌倉入りしてから勧請されたので、樹齢1000年の銀杏というのはちょっと無理のような・・・元々その銀杏のあった地に八幡宮を建立したとも、樹齢200年の銀杏を移植したとも思えませんし・・・
 何でも疑ってかかるのは悪い癖ですね。でも、伝わっていることを鵜呑みにするよりも、いろいろと考えた方が歴史は楽しくなりますし、それを考えることこそが歴史の楽しみでもあると思っています。

 樹齢はともかく、鶴岡八幡宮ではご神木として大事にしていた銀杏ですし、私も鶴岡八幡宮には何度も行って慣れ親しんだ木ですので、倒れてしまったことはとても残念です。

 写真は、しばらく前に紹介した『幕末古写真ジェネレータ』で古写真風にした、ありし日の鶴岡八幡宮。階段左にある大きな木が『隠れ銀杏』です。
 群馬県沼田市で『真田まるごと2週間』というイベント?を開催中だそうです。今夜の群馬TVのニュースでやっていました。
 少し前に観光ボランティアが沼田を案内している映像をちらっと見たのですが、これの一環だったのですね。

  ■沼田市HP 真田まるごと2週間
  ■上毛新聞ニュース 真田まるごと2週間

 23日には、大河ドラマ『天地人』の原作者である火坂雅志氏の講演会があるそうですが、すでに申し込みは締め切られています。
 うちは上毛新聞ではないので知らなかったのですが、11月12か日から火坂氏の『真田三代』が連載されているんですね。あまり読みたいとは思わないけど。(笑)

 ボランティアガイドも講演会もあまり興味はないけれど、『真田の城下町交流展』(24日~29日)は気になるなあ。
 『真田幸隆らの甲冑(かっちゅう)(レプリカ)』とあるけれど、幸隆所用と伝わっている甲冑は今まで見たことがありません。何処かにあるのでしょうか。

 沼田市は、真田伊賀守(信之の孫)の苛政のためか、あまり真田氏をアピールしていないように思えたのですが、近年の真田人気でヤル気になったのかな・・・と思いました。
 少し前、保険の更新手続きをした時のこと。
 私は父の知人の保険屋さんにお願いしていたのですが、体調を崩されてしまったため、別の代理店の方に引き継がれました。
 その方の会社は埼玉県。「嵐山町って知っていますか?」と聞かれたので、「畠山重忠の館のあったところですよね」と言ったら、「えっ!?知りません・・・」と言われました。
 どういう答えが聞きたくて、嵐山町のことを聞いたんだろう・・・『嵐山』と言えば、まずは『畠山重忠』じゃないの?
 逆に「何をした人ですか?」と聞き返されたので、「『平家物語』で山の斜面を愛馬を背負って駆け下りたと書かれている人」と答えておきました。

 その方は関西出身で嵐山町出身のわけではないそうですが、嵐山町で仕事をしていて畠山重忠を知らないことに驚きました。
 私の頃は、古典の教科書にも載っていた人なんだけどな。馬背負ったシーン(鵯越え)ではなく、烏帽子子(えぼしご)の大串重親を岸へ放り投げるシーン(宇治川の先陣)でしたが。
 私は歴史が好きだったから覚えているだけで、興味がなければ教科書に出ていても忘れてしまうのかな。このシーン、微笑ましくて好きなんだけど。

 木曽軍との戦いの時、急な流れの宇治川を渡る重忠。ようやく岸に着こうという時に、後ろからしがみつく者が。
 「誰か」と問えば「重親」と答えます。重忠は、この大串重親は烏帽子親(元服の時に烏帽子を載せてやる役)でした。
 重親は流されそうになったため、重忠につかまったとのこと。重忠は「お前は、いつも重忠に助けられるんだな」と言い、大串を掴んで岸に投げ上げました。
 岸で体勢を整えた重親は、刀を抜き放ち「武蔵国の住人大串次郎重親、宇治川の徒歩(かち)立ちの先陣ぞ!」と大音声で名乗りを上げたため、敵味方も一同に笑ったそうです。

 ■原文
  岩浪甲の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、
  水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。
  上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。
  「誰そ」と問へば、「重親」と答ふ。「いかに大串か」「さん候ふ」。
  大串次郎は畠山には烏帽子子にてぞありける。
  「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ」
  と言ひければ、
  「いつもわ殿原は、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ」と言ふままに、
  大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。
  投げ上げられ、ただなほつて、
  「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のつたる。
  敵も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。


 先陣というのは、真っ先に敵陣に懸ることで、武士にとってはこの上なく名誉なこと。もちろん、恩賞も多かったでしょう。
 ということで、一番に岸に上がった重親は自信満々に名乗ったのですが・・・流されかけたあげくに重忠に投げ上げてもらっての先陣の名乗りは、他者からみるとおかしくて仕方なかったのでしょう
 考えてみると、源平時代の合戦はおおらかだったんですね。戦国時代ならば、笑う前に矢や鉄砲が飛んで来ますよ。
 そのおおらかな戦法が、約100年後の元寇ではアダになったわけですが・・・(汗)
 『かかあ天下と上州女―上州嬶天下考』にも登場した由良成繁夫人・輝子(妙印尼)は、上州を代表する女傑。3年前に金山城へ行った時のレポに書いたことを、ここに転載してみます。

 金山城の最後の城主は、由良国繁。この人物の母が、前田利家・豊臣秀吉からも武勲を讃えられた妙印尼です。

 妙印尼は、上州館林城主・赤井重秀の娘で、実名は輝子と伝わっています。成長した輝子は、太田金山城主の由良成繁に嫁ぎました。

 長男の国繁は金山城(群馬県太田市)・桐生城(群馬県桐生市)、次男の顕長は長尾氏の養子となって館林城(群馬県館林市)・足利城(栃木県足利市)を支配、妙印尼は夫亡き後には出家し、桐生城で暮らしていました。

 由良氏は、関東全域に領土を広げようと野望に燃えた小田原北条氏と敵対していましたが、天正12年(1584年)に北条氏から同盟の話を持ちかけられ、国繁・顕長の兄弟は厩橋城(群馬県前橋市)で行われる茶会に揃って出かけました。
 実はこれは北条氏の罠。2人は捕われの身となります。

 2人の父・成繁は、「周囲の家から招かれても、兄弟が一緒に出かけてはならぬ」と遺言していたと言われています。これは、戦国乱世のことゆえ、たとえ交流のある家でも何時敵になるかわからず、2人同時に討たれてしまえば、由良の家も絶えてしまう。これを防ぐため、兄弟が別行動をとることを言い置いたものです。
 現在でも、由緒のある名家の方は、たとえ家族旅行といえども同じ飛行機に乗らないそうです。少なくとも2つに分け、飛行機事故などで全員が一度に死んでしまうようなことがないように配慮しているのだとか。

 うっかり父の遺言を破ってしまった兄弟。母の妙印尼は息子たちの愚かさを嘆きながら、城主不在の金山城に赴き、城兵の指揮をとりました。
 北条氏からは息子2人の返還と引きかえに由良氏の支配する4つの城を明け渡すことを要求し、金山城を包囲します。妙印尼はそれに屈することなく、自ら具足を身につけ長刀を持ち、場内の兵たちを激励し、またねぎらいながら籠城を続けました。
 金山城は現在の遺構からもわかる通り、天険を利用した堅固な城。なかなか落とすことが出来ない北条軍は、「兄弟を磔にする」と脅しますが、逆に北条軍に向かって大筒を撃ち、ひるむ北条軍に向かって300の兵を出して蹴散らしました。

 結局は北条氏から和睦を申し出、兄弟の命と引きかえに金山城・館林城を明け渡し、残った桐生城・足利城に入ることになりました。
 2つの城は失ったものの、兄弟の命が助かりなんとか由良の家が存続できたのも、妙印尼の奮戦のおかげでした。
 当時妙印尼は71歳と伝わっています。すげえバアさんだ・・・

 とりあえずは平穏な日々を送っていたと思われる妙印尼ですが、またしても試練が襲ってきます。
 それは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条征伐。北条氏の配下となっていた国繁・顕長は、いやおうなく小田原に呼び寄せられ、籠城に加わりました。
 聡い妙印尼は、秀吉の勢いに北条氏は抗うことができぬと判断、前田利家・上杉景勝率いる豊臣軍北国勢が碓氷峠から上州へ入ると、10歳の嫡孫・貞繁を連れて豊臣軍のもとへ赴きました。そして、孫の後見人として松井田城攻めに参加、勝利に貢献したと言われています。
 北国勢の大将・前田利家は妙印尼の行動を『あっぱれな後家』と褒め讃え、それを伝えられた秀吉も妙印尼と対面して労をねぎらったそうです。その時、妙印尼は小田原に籠もる息子2人の助命嘆願をし、許されました。
 小田原北条氏滅亡後は関東は徳川家康のものとなったため、桐生・足利の城は召し上げられてしまいましたが、妙印尼の武功を賞して由良氏には牛久(茨城県牛久市)に五千石の所領が与えられたそうです。
 この時、妙印尼は77歳。この時点でも当時としてはかなりの長寿ですが、彼女はさらに4年生きて81歳で没しました。


 近年、歴史小説『のぼうの城』のヒットで一躍有名になった忍城の甲斐姫は、この妙印尼の孫にあたります。妙印尼の娘(実名・生没年未詳)が忍城主・成田氏長に嫁いで産んだのが甲斐姫です。
 女傑・妙印尼の血を引く甲斐姫が、忍城攻防戦や継母の敵討ちで活躍したというのも、上州人にとっては嬉しいですね。

 写真は、上から館林城跡復元土橋門・金山城の図・金山城本丸跡の新田神社・忍城跡復元天守閣です。
 幸村の三女について、本館では下記のように紹介しています。

◆三女・梅(?~1687)
 母は高梨氏説と大谷氏説あり。前者であれば1600年以前に上田生まれ、後者であれば九度山生まれとなる。宮城県白石市に伝わる没年と享年から見て慶長9年(1604)に大谷氏が産んだ説が妥当のようだが、多くの本が高梨氏所生説をとっているのでこちらの説も捨てがたい。
 慶長19年(1614)、父とともに大坂城へ入る。城方への人質の意味もあったらしい。大坂落城後は伊達政宗家臣で白石城(宮城県白石市)主・片倉重綱(後に重長と改名)に保護され、正妻亡き後は後妻となる。梅の嫁入りの経緯についてはいろいろな説がある。
 梅は子供に恵まれず、重綱の前妻の産んだ娘・喜佐が松前安広に嫁いで産んだ長男・三之介(後に景長)を引き取り嗣子として養育した。
 天和元年(1687)2月8日没。享年は78歳(1604年出生説による)と言われている。墓は白石市の当信寺にある。


 上の文章にあるように、側室・高梨氏が産んだという説では、梅は上田生まれで大坂夏の陣の時に17歳(慶長4年生まれ)くらい。
 正室・大谷氏(竹林院)が九度山で産んだという説では慶長9年(1604年)生まれと言われ、白石でも梅は天和元年(1681年)に78歳で亡くなったと伝わっているので、大坂夏の陣の頃は12歳。
 でも、片倉家関係の『老翁聞書』には、梅についてこんな記述があります。

   大坂落城の砌(みぎり)、城中より年の程十六、七ばかりの容顔美麗なる女性、
   白綾の鉢巻し白柄の長刀を杖つきて重綱公の陣へ出けり。
   重綱公これを連れ帰りたまいて後室とす


 『老翁聞書』は上田生まれ説に当てはまるけれど、白石では九度山生まれ説が有力。
 別の土地での伝承ならばともかく、『老翁聞書』も慶長9年生まれ説も白石市に伝わっていることなのに年齢に齟齬がありますよね。12歳を16~17歳と見間違うとは思えないし・・・
 実際にはどちらだったのでしょうか。

 個人的には、初めに読んだ本が高梨氏の娘説だったので、こちらの方が好きです。
 昨日紹介した本の感想最後に書いた『異説』というのは、武田信玄の正室・三条夫人が、信玄の死後も生存していたというお話です。

 三条夫人というと、一昨年の大河ドラマ『風林火山』での池脇千鶴さんの好演が記憶に新しいですね。
 長男・義信は父と対立して幽閉の後に自害または病死、次男・竜宝(竜芳・海野信親)は盲目のため出家、三男・信之は早世、長女・黄梅院は北条氏政に嫁いだものの父のために離縁され子供たちを置いて実家に戻りまもなく死亡・・・という、母としては悲しみの多い生涯でした。

 彼女は夫・信玄よりも三年前に亡くなっているのですが、武蔵国で98歳(本では「97歳」とありますが生没年からみて数え98歳でしょう)まで生きていたという説があるそうです。
 以下は、通説とは違っている点(出家とか・・・)もありますが、『関東古社名刹の旅 千葉・埼玉・神奈川編』に書いてあったことを要約してみます。

 その本によりますと、三条夫人の実名は秀姫。義信死後に出家した秀姫は、信玄の弟・川窪信実の子である信俊を養っていました。
 川窪信実は長篠で討死し、数年後には武田家も滅んでしまいましたが、信俊は徳川家康に認められて武蔵金窪城主となります。
 秀姫とともに武蔵に移住した信俊は、廃寺を再興して秀姫を開基とした陽雲寺を建てました。
 秀姫はこの寺で余生を送り元和4年(1618年)に98歳で亡くなったそうです。
 陽雲寺には、秀姫の念持仏と伝わる小さな釈迦如来像や守り本尊であった聖観音像、狩野元俊筆の信玄夫妻図などが寺宝として伝わっているとのことです。
 また、本堂の『崇栄山』という額は、秀姫の実家・三条氏出身の明治の元勲・三条実美の筆によるものだそうです。


 その陽雲寺は、JR高崎線神保原駅から高崎方面へ距離にして2kmほど行ったところにあるとのこと。
 手持ちの地図で確かめてみたら、確かに陽雲寺というお寺が国道17号線近くにありました。その付近の地名は『金久保』といい、300mほど離れたところには『金窪神社』があります。このあたりが城跡でしょうか。

 この本を読むまでは、金窪城や川窪信実・信俊という人物を全く知りませんでした。自宅から車で30分くらいの所だし、高崎・長野方面へ行く時には電車で通っている近くなのにね。(汗)
 2009年の大河ドラマが『天地人』に決定した頃、主役・直江兼続については「知らない」「地味すぎ」という意見が多く、地元でも知名度の低さに頭を抱えているという新聞記事がありました。
 確かに、大名ではないし一般的には有名な武将ではなかったかもしれないけど、歴史(戦国)ファンの間では昔から人気が高かったのですよ。

 『歴史群像』という雑誌の1994年2月号では『戦国最強武将は誰か!?』という特集がありました。戦国武将を4つのクラス(下記参照)に分け、最強武将を投票で決定するという企画です。

  Aクラス=天下を意識していた武将、地理的時間的不利により後れをとった武将15人
  Bクラス=守護大名系および下剋上によって両国を支配した武将など15人
  Cクラス=主にAクラスの武将の家臣及び後継者30人
  Dクラス=参謀・特殊集団のリーダー・個人技に秀でた逸話のある武将15人

 この中で兼続は激戦区のCクラスに入っているのですが、読者投票では1位、識者(歴史研究家・作家など)投票では4位、総合で1位なんですね。
 なので、兼続のことを「知名度が低い」と書いた記事を読んだ時は、驚きました。(笑)

 結果は以下。判断基準も個人によってまちまちですし、選出理由を見ると、読者も識者もかなり自分の好みで選んでいるようですが。(笑)
 15年前の本ですので、今同様な投票をすると、また別の結果になるんでしょうね。
 


戦国最強武将は誰か!? 歴史群像1994年2月号より
(11位以下は省略してあります)


Aクラス=天下を意識していた武将、地理的時間的不利により後れをとった武将15人

Aクラス
読者の部識者の部総  合
1織田信長織田信長織田信長
2武田信玄徳川家康武田信玄
3伊達政宗武田信玄徳川家康
4徳川家康豊臣秀吉豊臣秀吉
5上杉謙信上杉謙信上杉謙信
6豊臣秀吉伊達政宗伊達政宗
7毛利元就毛利元就毛利元就
8北条氏康北条氏康北条氏康
9島津義久島津義久島津義久
10石田三成今川義元石田三成


Bクラス=守護大名系および下剋上によって両国を支配した武将など15人

Bクラス
読者の部識者の部総  合
1真田昌幸北条早雲北条早雲
2北条早雲斉藤道三真田昌幸
3斉藤道三真田昌幸斉藤道三
4松永久秀浅井長政松永久秀
5浅井長政大友宗麟浅井長政
6鍋島直茂松永久秀大友宗麟
7宇喜多直家鍋島直茂鍋島直茂
8大友宗麟尼子晴久宇喜多直家
9最上義光朝倉義景尼子晴久
10尼子晴久三好長慶朝倉義景


Cクラス=主にAクラスの武将の家臣及び後継者30人

Cクラス
読者の部識者の部総  合
1直江兼続前田利家直江兼続
2豊臣秀長加藤清正豊臣秀長
3黒田孝高黒田孝高黒田孝高
4蒲生氏郷直江兼続前田利家
5前田利家豊臣秀長加藤清正
6小早川隆景蒲生氏郷蒲生氏郷
7上杉景勝小早川隆景小早川隆景
8加藤清正上杉景勝上杉景勝
9本多忠勝細川忠興本多忠勝
10立花宗茂小西行長立花宗茂


Dクラス=参謀・特殊集団のリーダー・個人技に秀でた逸話のある武将15人

Dクラス
読者の部識者の部総  合
1真田幸村真田幸村真田幸村
2竹中半兵衛竹中半兵衛竹中半兵衛
3山本勘介山本勘介山本勘介
4島左近安国寺恵瓊島左近
5片倉小十郎島左近片倉小十郎
6服部半蔵片倉小十郎山中鹿之助
7山中鹿之助山中鹿之助服部半蔵
8雑賀孫一雑賀孫一雑賀孫一
9高橋紹運服部半蔵安国寺恵瓊
10安国寺恵瓊後藤又兵衛後藤又兵衛
 『長野県の武田信玄伝説』のところで書いたのですが、出雲の尼子家臣として有名な山中鹿介は、相木市兵衛の孫だと言う伝承が、長野県にあるそうです。
 相木市兵衛といえば、『風林火山』で山本勘助・真田幸隆とトリオを組んでいた(組んでない?)、あの相木殿ですよ!
 以下が、その要約です。長文をそのまま転載するのには問題がありますので、私の下手な文章ですみません。



 相木市兵衛の息子・森之助幸雄が長坂兵衛尉・跡部大炊を斬ったために甲斐へ送られてしまします。そこで斬られるはずだった森之助ですが豪勇を信玄に惜しまれて助命され、外部へは切腹をしたと伝えました。
 それを聞いた身重の妻・更科(岩寺右馬之助の娘)は夫の仇を討とうと山の洞窟にこもって信玄の身辺をうかがっていましたが、男の子が生まれると夫の遺児として大切に育て、その子が長じて山中鹿介になったというのが、北相木村の伝承です。
 この伝承では、父と逢えたかどうかは不明です。



 塩尻市の伝承では、村上家臣の相木盛之助とあり、盛之助の父が市兵衛とは書かれていません。
 盛之助は人質として甲斐へ送られましたが、夫の身を案じた妻の更科姫は一人で甲斐へ夫の安否を尋ねる旅をした帰りに鹿介を出産、付近の姥に数年の養育を頼んで更科姫は帰った・・・って、何で連れて行かないんだろう?その後の更科姫の消息は書かれていませんでした。
 で、父の盛之助が牛伏寺の参拝の帰途に見かけた鹿に乗った子供の身の上を姥に尋ねたところ自分の息子と判明。盛之助はその子を連れ帰って学問や武術を教えたところ、めきめきと上達しました。
 この子供が武者修行の折に出会った尼子勝久に出会って仕えることになり、尼子十勇士筆頭の山中鹿介となったとのことです。



 もうひとつ塩尻市の伝説がありますが、複雑なので要約できません。(汗)
 父は相木盛之助で母は更科、父が甲斐へ連れ去られ、母がそれを追う道中に生まれた子供ということは、上と同様ですが、この話の更科姫は強いぞ。
 隠れていた洞穴に現れた武田方の回し者を斬り伏せ、『天目の鬼丸』という強悪な賊を降伏させて、賊どもを手下にして甲斐の武田家を探らせていたというのですから。
 この伝承では、武田の回し者と戦っているすきに攫われてしまった子供と再会したのは母の方になっていて、尼子氏に仕えるに至る経緯はありませんでした。



 あれ?相木市兵衛と山中鹿介って、そんなに世代が離れていたっけ?
 この2人を祖父と孫とした場合、年齢的にはどうなんだろう・・・と思って調べてみました。

 相木市兵衛は永正13年(1516年)生まれ、山中鹿介は天文14年(1545年)生まれ・・・って、29歳しか違わない。二代続いて14~15歳のヤンパパなら不可能ではないけれど、ちょっとムリがあるなあ。
 息子ではなく、兄弟や従兄弟・一族ってことなら、年齢的には問題ないけど。

 山中鹿介については、生年だけでなく父や兄の名もわかっていますし、幼い鹿介のために母が鹿介の友人たちを大事にした逸話も残っていますので、この伝説の信憑性はほとんどないと思われます。
 でも、1つではなくいくつかの話が残っているということは、何か根拠というか、こういう話ができる素地のようなものがあったのでしょうか。
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